2019年4月1日月曜日

5センチ伸びた気がした朝——エイプリルフールの小さな嘘が、いつの間にか本音になっていた

原題:「5センチ」 



いつもの午後 いつも通り目が覚める。
まだ眠り足りないのもいつも通り。

今さら快眠を感じても、それに幸せを感じるわけもなく。

しばらく穴の空いた布団に半身浴。
やたらと長いカーテンの下からは5センチほどの外の世界が見れる。生憎の晴れ
干しっぱなしの洗濯物の影が揺れている。
風はある。

むくっと立ち上がる。
むくっとした下腹部。
起き上がるには理由が必要だった。
生理現象。

トイレの入り口の上部がいつもより近く感じた。
5センチほど身長が伸びたようだ。


今日はエイプリル
どうせならしょうもない
嘘を

ごめんなさい
なんて本当に思ってるのか

【2026年4月加筆】
[Updated Spr 2026]

「5センチ」は、本当に嘘だったのか

あの日が四月一日だったことに、
あとから気づいた読者もいるかもしれない。

嘘をつく日。
嘘を許される日。
あるいは、嘘という形でしか本音を置けない日。

「5センチ伸びた」という、どうしようもない嘘。
体重が減ったとか、人生が変わったとか、
そういう“意味のある嘘”ですらない。

それなのに、この嘘は、やけに正直だ。


カーテンの下から見えた5センチの外の世界。
それは希望でも展望でもなく、
単に「世界が続いている」ことの確認だった。

2026年の今、
私たちはあの頃よりもずっと多くの情報を知っている。
戦争も、分断も、経済不安も、
AIが文章を書き、映像を作り、
「嘘」と「本物」の境界線すら曖昧になった。

それでも朝は来る。
布団は少し破れていて、
洗濯物は干しっぱなしで、
晴れているのに、気分は特に良くも悪くもない。

世界は劇的には変わらない。
変わった“ような気がする”だけだ。


身長が伸びた気がした瞬間。
ドアの上部が近づいた錯覚。

あれは成長ではない。
上を向いた一瞬の姿勢の変化だ。

だけど人は、その一瞬を信じたがる。
昨日と今日が違うと信じたい。
自分が、ほんの5センチでも前に進んだと。

だから嘘をつく。
だからエイプリルフールが必要だった。


2026年の私たちは、
「嘘を見抜く力」は持った。
しかし同時に、
「信じてしまう弱さ」を失ってはいないだろうか。

正しさばかりが消費され、
間違いは即座に裁かれ、
言葉は切り取られ、保存され、
後戻りできなくなった。

そんな時代において、
この作品の嘘はあまりにも小さい。

5センチ。
誰も傷つかない。
誰も得をしない。
ただ、書いた本人だけが、少し楽になる嘘。


「ごめんなさい
なんて本当に思ってるのか」

この一文は、
誰かに向けた謝罪ではない。

自分自身への疑問だ。

謝れるほど、
まだ世界と正面から関われているのか。
責任を感じるほど、
何かを本気で信じているのか。


コロナ禍を越え、
リモートが当たり前になり、
人と会わなくても仕事は終わり、
声を出さなくても意思は伝わるようになった。

便利になったぶん、
身体の実感は薄れた。

だからこそ、
むくっとした下腹部や、
トイレに行く理由のような、
極めてどうでもいい「生理現象」が、
逆にリアルに感じられる。

生きている証拠が、
そこにしか残っていない気がするからだ。


「嘘」は、
現実から逃げるためのものではない。

「嘘」は、
現実と向き合い続けるための、
一時的な避難所だ。

本当のことだけを言い続けたら、
多分、人は壊れる。

だから人は、
伸びてもいない身長を伸びたことにして、
今日を始める。


5センチ伸びた世界は、
どこにも存在しない。

けれど、
5センチ分だけ世界を見る角度が変わったなら、
それはもう、嘘とは呼べない。


エイプリルフールが終わると、
何事もなかったように、次の日が来る。

誰も成長を確認しない。
誰も訂正を求めない。

それでいい。

嘘は、
回収されないから成立する。


この文章を読み終えた今、
読者のあなたが立ち上がっても、
天井との距離は変わらないだろう。

それでも、
ほんの5センチだけ、
昨日より視線が上がっていたとしたら。

それは、
とても人間らしい嘘で、
とても誠実な変化だ。


そして明日もまた、
いつもの午後が来る。

目が覚めて、
眠り足りなくて、
幸せでも不幸でもなくて。

それでも、
カーテンの下から覗く世界は、
確かに、続いている。


written by ときなかと

オリジナル投稿:2019年4月1日

これには触れとかないとね。「令和」とは何だったのか|改元から7年、日本は何を失い何を変えたのか

 原題:これには 触れとかないとね🖐️




🖐️「令和」

まっ触れるだけ、だけど

【2026年4月加筆】
[Updated Spr 2026]


## 【追記(2026年3月31日)】「令和」って結局、どんな時代になったのか――“名前の時代”から“生き方の時代”へ

2019年4月1日、元号「令和」が発表された。発表の瞬間の空気は、いま思い返しても独特だった。言葉が“降ってきた”というより、社会が一斉に「新しいラベル」を受け取った感じ。しかもそのラベルは、妙に柔らかいのに、妙に強い。

令和は『万葉集』の序文から採られたとされる。「国書由来」が話題になったのも、あの頃の象徴的な一幕だった。令和は2019年5月1日に始まり、いまも続く。平成の次、という制度的事実だけでなく、「令和」という二文字は、これまでの数年で“意味の荷物”をどんどん背負ってしまった。

じゃあ、2026年3月31日時点で、令和は何を背負ったのか。ここからが、読んだ人が次に知りたくなるところだと思う。

 1) 令和の前半は、想像以上に「世界が止まる」時代だった

令和が始まってすぐ、世界は新型コロナで一変した。日本でも2020年4月7日に緊急事態宣言が公示され、社会は“接触を減らす”ことを本気で実装するフェーズに入った。期間や対象区域が明記された公示文を読むと、当時の切迫が生々しい。

東京オリンピックが「中止ではなく延期」という前代未聞の決断に至ったのも、その延長線上にある。2020年3月の時点で「概ね1年を軸として遅くとも2021年夏までに開催」という方針が示され、名称も維持することで一致した、という公式発表が残っている。

この数年で起きたことを雑にまとめるなら、令和の序盤は「予定が予定として成立しない」時代だった。人生設計も、事業計画も、イベントも、教育も、全部が“仮”になった。元号は本来、年を数えるための記号なのに、令和はいつの間にか「世界が不確実になった時代」という感触そのものを帯びてしまった。

2) その一方で、令和は「デジタル化を現実にする」時代でもあった

コロナ禍で露呈したのは、医療だけじゃない。行政手続き、給付、情報連携、現場の紙文化――そういう“国のOSの古さ”が一斉に表面化した。そこから日本は「デジタル化を司令塔でやる」という方向に舵を切り、2021年9月1日にデジタル庁が発足した。これは公式に明記されている。

この出来事を、単なる省庁新設として見ると小さい。でも「令和の空気」として見ると大きい。なぜなら、令和という時代が突きつけたのは「手続きの遅さ」ではなく、「遅さが命取りになる現実」だったから。危機が来ると、“便利”の問題では済まない。命・雇用・生活の問題になる。

つまり令和は、「デジタル化=カッコいい」ではなく、「デジタル化=生存戦略」に変えた時代とも言える。

3) 令和の後半は、「物価」と「価値観」が同時に揺れる時代になった

コロナの次に、生活者が肌で感じたのは物価だった。総務省統計局の説明にもある通り、消費者物価指数(CPI)は家計が買う財・サービスの価格変動を測る指標で、経済施策や年金改定にも利用される。つまり“暮らしの温度計”だ。

そして実際、2025年平均の全国CPI(総合)は前年比プラス、基調を示す指標も上昇が示されている。少なくとも近年が「デフレの空気」だけでは語れない局面に入ったことは、統計の公表形式からも読み取れる。

物価が動くと、生活は変わる。節約の仕方が変わり、賃上げの話が増え、投資や副業が“好きでやるもの”から“やらないと不安なもの”へ寄っていく。そして価値観も揺れる。「何にお金を使うか」「何を我慢しないか」「何を優先するか」。令和は、そういう“個人の設計”を迫る時代になった。

4) 「現金」すら、令和の空気を映すメディアになった

元号が変わると、紙幣も変わる。令和6年(2024年)7月3日に新しい日本銀行券の発行が開始されたことは、日本銀行のサイトに明確に書かれている。
財務省の報道発表でも、同日発行開始、そして「現行紙幣も引き続き通用する」ことが注意喚起されている。

この出来事が象徴的なのは、「新しい顔」に変わったからだけではない。偽造防止やユニバーサルデザイン強化など、紙幣という“アナログの王様”が、社会の変化に合わせてアップデートされ続けている点だ。キャッシュレスが進んでも、現金はゼロにはならない。むしろ非常時の強さ、誰でも使える強さがある。

令和は、デジタルへ寄りながら、アナログの価値も再評価する――そういう二重構造の時代になった。

 5) じゃあ「令和」という言葉の意味は、結局どう変わったのか

発表当日の「令和」は、どこか抽象的だった。「美しい響き」「新しい時代の始まり」というムードが先に立ち、意味はあとから付いてくる感じだった。

でも2026年の今、「令和」という二文字は、もっと具体的で生々しいものになっている。

- 予定が崩れる不確実性(コロナ、延期、制限)
- 社会の仕組みを変えざるを得ない圧力(デジタル庁発足)
- 暮らしとお金の前提が揺れる現実(CPIの重要性と公表)
- “日常の象徴”すら更新される感覚(新紙幣)

こうして並べると、令和は「みんなで同じ方向を見る時代」ではなく、「各自が設計し直す時代」になった、と言える気がする。

平成は、拡大の終わりと停滞の始まりが長く続いた時代だった、と後から言われがちだ。令和は、その“停滞を前提に生きる技術”を社会全体に強制的に学習させた時代なのかもしれない。しかも、ただ耐えるだけではなく、仕組みも習慣も変えながら。

 6) この追記の結論:「令和」は“言葉”から“生活”へ降りてきた

元号発表の日、令和は言葉だった。ニュースのテロップで、書道の額で、SNSのトレンドで消費される「新しい名前」だった。

でも、2026年の令和は“生活”だ。働き方、行政、イベント、健康観、家計、支払い、そして不確実性との付き合い方――その全部の中に、令和は溶けている。

だからこそ、いま改めて「触れとかないとね」と言う価値がある。

令和は、たぶん“いい時代/悪い時代”みたいな雑な評価では終わらない。むしろ「どう生きたか」で意味が変わる時代だ。名前が先にあって、意味は後から個人がつくる。そういう元号になってしまった。

そしてそれは、ちょっとだけ面倒で、ちょっとだけ希望がある。
 

written by ときなかと
オリジナル投稿:2019年4月1日