2024年4月8日月曜日

選曲が渋いな、オイ   おまえはいったい何歳だ?



 今日、息子(次男)の担任の先生が、学校にスピーカーを持ってきていたらしく、「好きな曲を流してあげるよ」と。

クラス全員分のリクエストを受け付けたのか、それとも手を挙げて早い者勝ちで選ばれた子からリスエストに応じたのか、細かなところまでは聞いていないものの、息子のリクエストが通った、とのこと。

息子のリクエスト

いい日旅立ち 山口百恵
https://www.youtube.com/watch?v=dQ_4Jmqf2eU


・・・そんな息子は現在小学4年生
自分が生まれる36年前の曲って、選曲が渋いな、オイ。
かろうじて先生はわかったであろうものの、クラスのほかの子は誰もわからんやったろうに(苦笑。

選曲の理由はおそらく、国鉄の『いい日旅立ちキャンペーン』に使用されていたから、ではなく、JR西日本の新幹線の車内チャイムがそうか。
https://www.youtube.com/watch?v=GwrbUf_Z1aM

こういう鉄もあり?


乱横断の危険性とその背景:歩行者と運転者の視点の違い

 原題:乱横断は見えている世界の違いから?自分の都合で渡る理由

Is the turbulent crossing due to the difference in the visible world? Reasons to cross at your own convenience 

乱横断とは?
What is Random Crossing?


横断歩道のない場所を、歩行者が「自分の都合」で車道を渡ってしまうこと。
それが乱横断です。とても危険な行為です。
では、なぜ、そのような危険な行為が行われてしまうのでしょう。

Pedestrians cross the road at their own convenience in places where there is no pedestrian crossing. That is a random crossing. It's a very dangerous act. So why would such a dangerous act be done?

見えている世界
The visible world

運転者歩行者は、見えている世界がまったく違います。
運転者の視点と歩行者の視点。
運転していない人や運転しなくなった人は、歩行者の立場では「前方注意」しますが、運転者の視点を意識しなくなっているのでは?と感じます。

Drivers and pedestrians see a completely different world. Driver's point of view and pedestrian's point of view. People who are not driving or who have stopped driving are "attention forward" from the standpoint of a pedestrian, but aren't they unaware of the driver's point of view? I feel that.

結論:避けられることは回避してお互いに体を大切にしよう
Conclusion: Avoid avoidance and take good care of each other

私の結論を言ってしまうと、
「避けられる事故は回避しよう」
「体を大切に」
です。

To say my conclusion "Avoid accidents that can be avoided" "Take care of your body" is.

「避けられる事故は回避しよう」
"Avoid accidents that can be avoided"

世の中には、避けたくても避けられない「物理的スピード」や「重力の法則」があります。同時に、「あなたの気持ちひとつで、クリアできてしまう課題」も多いのです。
There are "physical speeds" and "laws of gravity" that are inevitable even if you want to avoid them. At the same time, there are many "problems that can be cleared with just one of your feelings".

「体を大切に」
"Take care of your body"

あえて、「命」と「気持ち」は、ここでは使いませんでした。
体を大切に。『怪我しないように』していれば、自然に命も守られるので。
たとえ小さな傷でも、『痛い』『治らない』となれば、日常生活に支障が出てしまいますよね。
毛虫に刺されて赤く腫れた手では、仕事ができなくなります。それって、命に別状なくても大変なことです。
あえて、「命」という表現を持ち出さなくても、「生きていくことが大変になる」ことを想像してもらえたらいいなと考えています。
体を守ること、これだけで、少なくとも心配事を減らすことができます
I dared not use "life" and "feeling" here. Take good care of your body. If you "do not get injured", your life will be saved naturally. Even if it is a small wound, if it "hurts" or "doesn't heal", it will hinder your daily life. A red, swollen hand that has been bitten by a caterpillar will not be able to work. It's a big deal even if you don't have a life-threatening situation. Even if I don't dare to bring up the expression "life," I hope people can imagine that "living will be difficult." Protecting your body, this alone can at least reduce your worries.

「気持ち」に関して
Regarding "feelings"

「気持ち」に関しては、ある程度のこととなると干渉しないほうが良いのかな、という諦めがあります。どんなに正しいことであったとしても、相手に強要してしまったら、なにかが間違い始めてしまう気がするからです。

『法律的に正しいこと』も、お互いにそれぞれが理解と納得していないと、強要は歪みの元だと感じています。

だって、ほら。あなたは聞いたことありませんか?

『昔は違った』
『前は、こうだった』

昔は「法律でこれは許可されていた。それは禁止されていた」ことが「現在は真逆になっていて」違っている。
前は、「法律での規定は、こう。世間的な常識は、こう。こうこうこうだった」と。

つまり、「現在の私たち」も、将来的には「間違い」とされてしまう日が来るかもしれないのです。だからといって、弱気になる必要はありません。落ち込む必要もないです。今は今、精一杯に生きましょう。そして、できることなら、あまり一方的に相手を糾弾したりせずに。せめて話は、お互いに耳を傾けられる関係を維持していきたいと考えています。

どんなに正しいことでも相手に強要・命令するときは慎重に

別な言い方をすれば、お互いに「優しくしようよ」です。

こちらが優しくしても、相手が・・・という問題は解決できないので、悔しいですが。

「ダメなものはダメ」と言い切る必要があるときが、あります。言っていいです。ただし、心の中に『逆の主張もある得る』という可能性を意識できていれば、極点な無理強いにならずに済むのではないか?と考えています。

Regarding "feelings", there is a resignation that it is better not to interfere when it comes to a certain degree. No matter how correct it may be, if you force the other person, something will start to go wrong. I feel that coercion is a source of distortion if we do not understand and agree with each other about "legally correct". Because, you see. Have you never heard of it? "Old times were different" "Before, it was like this" In the old days, "this was allowed by law. It was forbidden" is different "now it's the exact opposite." Before, "The provisions of the law are like this. The common sense is this. This was like this." In other words, the day may come when "we of the present" will be regarded as "mistakes" in the future. That doesn't mean you have to be bearish. You don't have to be depressed. Let's live to the best of our ability now. And if you can, don't denounce your opponent too unilaterally. At the very least, we want to maintain a relationship where we can listen to each other. Be careful when forcing or ordering the other party, no matter how correct In other words, let's be kind to each other. Even if this is kind, I'm disappointed because I can't solve the problem of the other party. There are times when you need to say "no good things". You can say it. However, if you are aware of the possibility that "there may be the opposite claim" in your mind, you may not be forced to the extreme. I think.

表現としての「自己責任」
"Self-responsibility" as an expression

そろそろ「自己責任」という表現は控えてみませんか?
反省している本人が「自己責任です」と言うのなら、あまり問題ないでしょう。
でも、「それ自己責任だからな!」と、言い放ってしまうのは、ちょっと違和感があるのです。
他人に対して「自己責任だよ」と言ってしまう態度には、問題解決の糸口がないように思えます。さらに、「再発防止」の観点も抜けてしまっている気がします。
いままでも「とりあえず他人に対して自己責任を要求するのは控えたい」と感じていたのですが、最近は「過剰な自分自身に対する自己責任も控えた方がいい」と感じています。
たとえば。「それ良くないですよ」と、指摘されたとき。
その行為、たとえば「乱横断は、とても危険ですよ」そう指摘されたときに、
『いいの。自己責任だから』
と言い返している姿を見たときに、
『自分だけだと思っているのかな』
と思ってしまいそうになります。
だって「あなたが事故に遭って痛い思いをしたとして、それをあなたが自己責任だと納得するのは勝手ですが、あたなをはねてしまった人とその家族に対しては何も思わないのですか」って、言いたくもなるのですよ。
「自己責任」という表現が、「私はバカだからいいの。で、バカに向かってバカっていう、そっちもバカだからね」と聞こえてしまうことがあります。反省でもないし、いいわけでもありません、むしろ攻撃です。そんな気がしてしまいます。
「これ自己責任だからさ!」と開き直られると、攻撃的、ていうより、なんともいえない無力感におちいっちゃいます。
Why don't you refrain from the expression "self-responsibility"? If the person who is reflecting on it says "it is your own responsibility", it will not be a problem. However, it feels a little strange to say, "It's your own responsibility!" The attitude of saying "it's your responsibility" to others seems to have no clue to solving the problem. Furthermore, I feel that the viewpoint of "prevention of recurrence" has been omitted. I still felt that I would like to refrain from demanding self-responsibility from others for the time being, but recently I feel that it is better to refrain from excessive self-responsibility for myself. for example. When it was pointed out, "That's not good." When that act, for example, "Random crossing is very dangerous" is pointed out, "okay. Because it's your own responsibility. " When I saw him saying back "Do you think you are the only one?" I'm about to think. Because, "If you have an accident and feel pain, it's up to you to convince yourself that you're at your own risk, but you don't think anything about the person who hit you and their family. Isn't it? " The expression "self-responsibility" may be heard as "I'm stupid because I'm stupid, so I'm stupid toward stupid, because that's also stupid." It's not a reflection, it's not a good thing, it's an attack. I feel like that. If you reopen it as "This is your own responsibility!", You will feel a sense of helplessness rather than aggressiveness.

けものみち
Kemono Michi

獣が通った場所が、自然に道になります。獣道ですね。
私たち人間にも、そういう獣道を作り出す性質があるのではないでしょうか。
動物としての本能で。
議会で決められたテーブルの上のルールがなんであろうとも。
たとえ法律や条令を理解していたとして「野性の命」の行動があるのでは?
野性と野性の、やりとり。
もしくは、
「運転ルールの理性」と「歩く動物の野性」の、やりとり。
ガチガチの都市計画では、どこかに矛盾や歪みを生んでしまうのではないか、と、あらためて新しく「考え直してみる」そんな時間的な余裕も必要になってきているのではないでしょうか。
The place where the beast passed naturally becomes the road. It's a beast road. I think we humans also have the property of creating such a beast path. With instinct as an animal. Whatever the rules on the table decided by Congress. Isn't there an action of "wild life" even if you understand the law and ordinance? An exchange between wildness and wildness. or, The exchange of "reason of driving rules" and "wildness of walking animals". I think that it is necessary to have time to "rethink" anew, thinking that contradictions and distortions may occur somewhere in the rugged city planning.



車のハンドルにある「あそび」
"Play" on the steering wheel of the car


車のハンドルには、クルクルクルクル~とまわせる「あそび」がありますよね。
あの「あそび」があるから、安全に運転できます。そのように設計されているのが自動車です。
自動車には、ちゃんと「あそび」があるのに、人間には「あそび」が少ない、もしくは「削除」していませんか。
なお、「あそび」がないハンドルでは、交通事故が発生しやすくなるそうです。
「あそび」は大切です、というよりも、「あそび」が必要なんですよね。
On the steering wheel of a car, there is a "play" that can be turned around. Because there is that "play", you can drive safely. The car is designed that way. Isn't there "play" in the car, but there is little "play" in humans, or is it "deleted"? In addition, it seems that traffic accidents are more likely to occur with a steering wheel that does not have "play". "Play" is more important than it is, isn't it?

心が折れないように「自己肯定」するためのメモ
A memo for "self-affirmation" so as not to break your heart


それでは、ここからはメモです。自戒を込めつつも、心が折れないように「自己肯定」するためのメモです。
運転者の視点と歩行者の視点では、見えている世界がまったく違います。そのあたりも含めて、簡単にメモをしておきます。
まずは、こちらもご参照ください。
Then, it is a memo from here. It is a memo to "self-affirm" so as not to break the heart while putting self-admonition. From the driver's point of view and the pedestrian's point of view, the world we see is completely different. Make a brief note, including that. First of all, please refer to this as well.

道路交通法38条
第六節の二 横断歩行者等の保護のための通行方法
(横断歩道等における歩行者等の優先)
第三十八条 車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。
2 車両等は、横断歩道等(当該車両等が通過する際に信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等により当該横断歩道等による歩行者等の横断が禁止されているものを除く。次項において同じ。)又はその手前の直前で停止している車両等がある場合において、当該停止している車両等の側方を通過してその前方に出ようとするときは、その前方に出る前に一時停止しなければならない。
3 車両等は、横断歩道等及びその手前の側端から前に三十メートル以内の道路の部分においては、第三十条第三号の規定に該当する場合のほか、その前方を進行している他の車両等(軽車両を除く。)の側方を通過してその前方に出てはならない。
(罰則 第百十九条第一項第二号、同条第二項)
(横断歩道のない交差点における歩行者の優先)
第三十八条の二 車両等は、交差点又はその直近で横断歩道の設けられていない場所において歩行者が道路を横断しているときは、その歩行者の通行を妨げてはならない。
(罰則 第百十九条第一項第二号の二)


出典・引用元:
道路交通法
(昭和三十五年法律第百五号)
施行日: 平成三十年四月一日
最終更新: 平成二十九年六月二日公布(平成二十九年法律第五十二号)改正
データベースに未反映の改正がある場合があります。
最終更新日以降の改正有無については、「日本法令索引」のリンクから改正履歴をご確認ください。

横断歩行者妨害違反と歩行者優先
Crossing pedestrian obstruction violation and pedestrian priority


横断歩道のある場所については、「横断歩道の直前で停止できるように」車のスピードを運転者が調整しなければなりませんよね。
信号があれば、信号を守るのは運転者も歩行者も同じです。
信号や横断歩道そのものがない場所では、どうでしょうか。
横断歩道の設けられていない場所では、明らかに歩行者が横断しようとして待っているときがあります。タクシー待ちというより、チャンスを見て『渡るぞ』という感じです。
道路交通法38条の2では、「車両等は、交差点又はその直近で横断歩道の設けられていない場所において歩行者が道路を横断しているときは、その歩行者の通行を妨げてはならない。」と規定しています。
「歩行者の通行を妨げてはならない」は、「歩行者を渡らせてあげなさい」と説明されることが多いかなと思います。
渡らせてあげないと、運転者側が違反になるのですが、それを別な言葉で表現したのが、「横断歩行者妨害違反」です。
さらに「歩行者優先」という言葉も、よく聞きますよね。
そのうえで、今度は歩行者側のルールをチェックしてみましょう。
Where there is a pedestrian crossing, the driver has to adjust the speed of the car "so that it can stop just before the pedestrian crossing". If there is a signal, it is the same for both drivers and pedestrians to keep the signal. What about places where there are no traffic lights or pedestrian crossings themselves? Obviously, pedestrians may be waiting to cross in places where there is no pedestrian crossing. Rather than waiting for a taxi, it's more like "I'm going to cross" after seeing a chance. According to Article 38-2 of the Road Traffic Act, "Vehicles, etc. must not obstruct the passage of pedestrians when they are crossing the road at an intersection or in a place where there is no pedestrian crossing in the immediate vicinity. . ". I think that "don't block the passage of pedestrians" is often explained as "let the pedestrians cross." If you do not pass it, the driver will be in violation, but in another word, it is a "crossing pedestrian obstruction violation". You also often hear the word "pedestrian priority". Then, let's check the rules on the pedestrian side.

歩行者の通行方法
How to pass pedestrians

実は、「歩行者優先」も「横断歩行者妨害違反」も、運転手にとって「気をつける」ことなので、「そうしろよ」と歩行者が上から目線で言っていいわけではないのですよね。
というのも、こちらをご参照ください。
In fact, both "pedestrian priority" and "crossing pedestrian obstruction violation" are "careful" for the driver, so it is not possible for the pedestrian to say "yes" from above. Please refer to here.



第十二条 歩行者は、道路を横断しようとするときは、横断歩道がある場所の附近においては、その横断歩道によつて道路を横断しなければならない。
2 歩行者は、交差点において道路標識等により斜めに道路を横断することができることとされている場合を除き、斜めに道路を横断してはならない。
(横断の禁止の場所)
第十三条 歩行者は、車両等の直前又は直後で道路を横断してはならない。ただし、横断歩道によつて道路を横断するとき、又は信号機の表示する信号若しくは警察官等の手信号等に従つて道路を横断するときは、この限りでない。
2 歩行者は、道路標識等によりその横断が禁止されている道路の部分においては、道路を横断してはならない。
(歩行者用道路等の特例)

基本は「歩行者は横断歩道を横断しなければならない」、
さらには道路標識で許可されていない限り「斜めに横断してはならない」とあります。
さらに「車両等の直前又は直後」でも「横断してはならない」とあります。もちろん、信号や警察官の手信号に従う時は横断できます。
そして「横断が禁止されている道路」は「横断してはならない」のです。
なにかと『歩行者優先』が独り歩きしていることが多い気がするのですが、道路交通法では「第二章 歩行者の通行方法」で、歩行者に対しても規定しています。
ちょっと簡略化しすぎな説明ですが、要するに「車の運転手」も「歩行者」も、それぞれに守るルールがあるということです。そのうえで、あらためて「乱横断」の問題を考えてみましょう。
The basics are "pedestrians must cross the pedestrian crossing", In addition, it says "Do not cross diagonally" unless permitted by a road sign. Furthermore, there is a statement that "you must not cross" even "immediately before or after the vehicle, etc." Of course, you can cross when following a signal or a police officer's hand signal. And "roads that are prohibited from crossing" are "must not cross". I feel that "pedestrian priority" often walks alone, but the Road Traffic Act stipulates for pedestrians in "Chapter 2 Pedestrian Passage Method". It's a bit oversimplified, but the point is that both "car drivers" and "pedestrians" have their own rules. Then, let's think about the problem of "random crossing" again.

道路交通法は、いつから存在している法律?
When is the Road Traffic Act a law that has existed?


これです。ここなんですよ。「高齢者」にとっては、いちばん記憶が鮮明な若い頃に「そんなルール知らない」であったり、働き盛りで頑張っていた時代には「こうだった、ああだった」ということも少なくありません。

「人生の先輩」たちです

経験や体験を有効活用している、それが

「人生の先輩」たちです。

下手すれば、「現在の法律を知っている若者」が「経験豊富な人生の先輩」に物を申せば、「常識を知れ」と言われてしまいます。
改正された法律を守ろうとすることが、「お前は常識を知らん」と言われかねない事態に。なかなか切ないです。
人生の先輩たちをリスペクトする気持ちがあります。
あります。
あったうえで、『常識はともかく法律を守れ』と言いたくなってしまいます。
でも、そんな法律も、『いつか改正されるかも』という存在です。
改正されたときに「守れって言ったじゃないか。だから守ったのに今度は違うとはなんだ」と逆切れされる原因になり得ます。
赤の他人ならまあともかく、家族や親族など身内となると。
こういう議論のときは、正義感をふりかざすつもりはなくても、「正しいことを言っているのは私だよ?」と、意固地になりかねません。
さらには人生の大先輩から、
『お前は常識がわかってねえんだよ。もっと普通になれ!な、いいか?世の中は個性だ自由だなんて言ってるけど、そうじゃねえ。フツウが一番なんだ。な、わかるか。わかんだろ?だからフツウになれ、おまえも。な!」と。
『だって俺たちは、こうだった。こう教わった、しつけられた。これが世の中の常識だ。おまえ、へりくつばっかり言ってんなよ』
と、人生の先輩・大先輩が、おっしゃられるわけです。
百歩譲ることは可能です。まあ気持ちは、わかります。
私も『自分の経験』から語ってしまうこともありますし、
『あれ?そうだっけ。こうだったはず』みたいに戸惑うことも、あります。
なので、基本的に、人生の先輩たちの言葉は、たとえそれが現在の法律や条例に違反していたとしても、話だけは『まずは聞く』ように心がけています。
話を聞いてあげる、というと、それもまた不遜な上から目線に思われてしまうかもしれませんが、聴きます。相手の話、人生の先輩の話、きっちり聞きます。
しかし、「聞くこと」と「従うこと」は別です。
さらには、先輩によっては、話が終わったのにまた振り出しに戻ってリピート状態になって、エンドレスモードに突入してしまうことも。
それでも、百歩譲ることは可能。ええ、大丈夫です。
あくまでも「話」であり「会話」ですから。
けれども「おれが正しい。だから従え」と言われてしまうのは、正直きついです。
どからが正しいのか、という視点を脇に置くと、「だから従え」の結論では、お互いさま。なので、そこだけは自戒というか注意しています。
This. It's here. For "elderly people", it is not uncommon for them to say "I don't know such a rule" when they were young, when they had the clearest memory, and when they were working hard, they said "This was it, that was it." "Seniors of life" Effective use of experience and experience, that is "Seniors in life". If you are not good at it, if a "young man who knows the current law" tells an "experienced senior in life", he will be told to "know the common sense". Attempting to comply with the revised law can be said to be "you don't know common sense." It's quite painful. I have a feeling of respect for my seniors in life. I have. After that, it makes me want to say, "Keep the law aside from common sense." However, such a law also has the existence of "may be amended someday." When it is revised, it can cause a reverse cut, saying, "You said you should protect it. That's why it's different this time even though you protected it." Anyway, if it's a red stranger, it's a relative such as a family member or a relative. At times like this, even if you don't intend to give up a sense of justice, you can be stubborn, saying, "I'm the one who is saying the right thing?" Furthermore, from a big senior in life, "You don't understand common sense. Be more normal! Is that okay? I'm saying that the world is individual and free, but that's not the case. Futsu is the best. Do you understand? You don't know? So be foolish and you too. What! "When. "Because we were like this. I was taught and disciplined. This is common sense in the world. You're just talking about it. " That's what the seniors and big seniors in life say. It is possible to give up a hundred steps. Well, I understand my feelings. Sometimes I talk about it from my own experience, "that? That's right. It should have been like this. ”Sometimes I'm confused. So, basically, the words of my seniors in life try to "listen first" to the story, even if it violates current laws and ordinances. When I say I'll listen to you, it may seem irreverent from above, but I listen to it. Listen to the other person's story, the story of your senior in life, exactly. However, "listening" and "obeying" are different. Furthermore, depending on the senior, even though the story is over, it may return to the beginning and enter the repeat state and enter the endless mode. Still, it is possible to give up a hundred steps. Yes, it's okay. It's just a "story" and a "conversation". But to be honest, it's hard to say, "I'm right, so obey." Putting aside the perspective of who is right, the conclusion of "So obey" is that each other. So, I'm careful about that alone.

命を大事にしてほしい
I want you to take good care of your life

問題なのは、「命にかかわる」ときなのですよ。
結局のところ、「運転者」「歩行者」それぞれの立場や視点がどうであろうと、法律がなにをどう規定していようとも、「命にかかわる」となったら、立場の違いや法律の条文よりも、まず、「その命を大事にしてほしい」ではないでしょうか。
理不尽な、もう、本当に『なぜ?』としか言えないような事故も存在しています。
守れるものは守りたい」、ほんのちょっとの心がけで可能なことも多いです。
私も、つい法律を持ち出してしまったり、人生の大先輩との言い争いになったときに、
『だったら文句は私ではなく、国会に言えよ。法律を決めた国会議員に申しあげなよ』
と言い返したことがあります。大人げなかったとは思いますが。
The problem is when it's "life-threatening." After all, no matter what the position or perspective of each "driver" or "pedestrian", no matter what the law stipulates, if it becomes "life-threatening", the difference in position and the law First of all, "I want you to cherish that life" rather than the text. Unreasonable, really, "Why? There are also accidents that can only be said. "I want to protect what I can protect", there are many things that can be done with just a little care. When I just brought up the law or had a dispute with a big senior in my life, "If so, complain to the Diet, not me. Tell the parliamentarians who decided the law. " I have said back. I don't think I was grown up.


教育と躾と実体験
Education, discipline and hands-on experience

でもまあ、いくつか。
これは意識しても良いのではないかな、と感じていることがあります。
それが『その人にとっての実体験や、かつて受けていた教育や躾の影響』と、『かつての景色』です。
車の通行量が少ない道路も多かったし、狭いけれども歩行者が気楽に歩けた道路も多かった。自宅から歩いて、商店街で買い物をして、郵便局や銀行にも立ち寄って、安全に歩いて帰ったこれた。歩く距離は長くても、常に安全に移動できた
現在は、どうでしょう。
歩行者信号の「青」は、とても短い時間です。
ある程度の脚力に自信のある私でも、「青になってから、点滅が始まる前までに」歩き切るのはまず無理なことが多いです。
「青の時間だけ」で、歩いて横断歩道を渡りきるのは至難の業です。
たいてい、歩き始めて、1,2,3,4,あたりで点滅。で急かされて。
あるいは、『そろそろ信号変わるよな。自動車みんな止まったな』と確認の上で、やや早めに歩道から車道に足を踏み出しておいて、スタートダッシュ。
But well, some. I sometimes feel that this may be conscious. That is "the actual experience for the person and the influence of the education and discipline that he had received" and "the scenery of the past". There were many roads with low traffic, and many roads were narrow but easy for pedestrians to walk on. I walked from my house, shopped in the shopping district, stopped by the post office and banks, and walked home safely. Even though I walked a long distance, I was always able to move safely. How about now? The "blue" of the pedestrian traffic light is a very short time. Even though I am confident in my leg strength, it is often impossible to walk "after it turns blue and before it starts blinking." It is extremely difficult to walk across the pedestrian crossing in "only blue time". Usually, when I start walking, it blinks around 1,2,3,4. Be hurried. Or, "The signal will change soon. After confirming that all the cars have stopped, I set foot on the road from the sidewalk a little earlier and started dashing.

誰にとっての優しい世界?
Who is the kind world?

高齢者に優しい世界ではないです。いえ、年齢に関係ないですね。早め早めに効率良く行動できる人が優先される傾向があるのではないでしょうか。「約束したら、5分前行動」の世界観です。そういう世界観なら、子どもの頃の私も包まれていました。約束の時間を守るだけでは誉めてもらえませんよね。約束の5分前に到着してこそです。時間厳守ではなく、5分前行動できる人たちにとって優しい世界
私が足の怪我をしたとき、それは10代でしたが、横断歩道を自力だけで渡ることは不可能だったのを覚えています。歩行者は私一人だけだとしても、信号が変わってもなお停車し続けてくれる運転者の協力がありました。止まっててくれる、目を合わせると『いいよ』と言ってくれているような気がする。そういうことがあると、『自力だけじゃないな』と感じられますし、そういうのって、『他力』って言うのかなと思ったりしました。横断歩道を渡るのは自分の力だけでも、見守って認めてくれている他力があるからこその、自力です。
5分前行動できる人たちにとっての優しい世界は、
とても効率的で、余裕もあるのですが、
ときには「そうしたくてもできない人」への配慮もできたらなあ。と願います。
It's not a world that is kind to the elderly. No, it doesn't matter what age you are. I think people who can act efficiently as soon as possible tend to be prioritized. It is a world view of "If you promise, act 5 minutes ago". With that kind of world view, I was wrapped up as a child. You can't be praised just by keeping the promised time. Only arrive 5 minutes before the appointment. A world that is kind to people who can act 5 minutes ago, not punctually. I was a teenager when I had a leg injury, but I remember it was impossible to cross the pedestrian crossing on my own. Even if I was the only pedestrian, there was the cooperation of the driver who continued to stop even if the signal changed. It's stopped, and when I look at it, I feel like it's saying "OK". When that happens, I feel that it's not just about my own power, and I wonder if that's what I call "other power." Crossing the pedestrian crossing is my own power, but it is my own power because I have other powers to watch over and acknowledge. 5 minutes ago The kind world for those who can act is It ’s very efficient and I can afford it, Sometimes I wish I could give consideration to "people who can't do that". I hope.

車社会
Car society

ローカル線が廃止されて、なおのこと「車がないと暮らしていけない」ような環境の中では、高齢者も現役の運転者です。私の身近でも、80代90代の運転者は少なくないです。田舎なので、まあ、それでもなんとかやっていけるというのもありますが。
ただし、田舎だからこそ『見通しの良い交差点で衝突事故』が発生し続けています。建物ひとつない畑だらけの道と道での事故。医者や心理の専門家が『だからこそ起こりやすい』という説明をしているのを聞いたこともあります。どういう理由だったかなあ。
いろいろな不安要素や問題もあるにせよ、人生の大先輩がたの運転に関しては、『自動運転技術・無人運転』に、とても期待しています。理由は、「命にかかわる」からです。
Elderly people are also active drivers in an environment where local lines are abolished and even more so, "I can't live without a car." Even around me, there are many drivers in their 80s and 90s. It's a countryside, so there are times when I can still manage to do it. However, because it is in the countryside, "collision accidents at intersections with good visibility" continue to occur. An accident on a road full of fields without a single building. I've heard doctors and psychologists explain that it's easy to happen. I wonder what the reason was. Despite various anxiety factors and problems, I have high expectations for "autonomous driving technology / unmanned driving" when it comes to driving for the big seniors in my life. The reason is that it is "life-threatening."

共有できるものに目を向けられれば
If you look at what you can share

立場や視点が違っても、『認識している法律』さえ違っても、「命にかかわる」「命を守りたい」という気持ちは、おそらく共有できると考えているのです。
「自分の命の大切さ、相手の命の大切さ、誰かの命の大切さ、本人だけでなくその人の家族や友人にとっての大切さ」は、人としての共通項にできるのではないかと感じていますし、個性や価値観を越えられると思います。
でも、現実には、無理だったり、困難だったり、『あああ』と絶句することが多い。こればっかりは、ほんとうに。
I think that the feelings of "life-threatening" and "want to save lives" can probably be shared, regardless of the position or perspective, or even the "recognized law." "The importance of one's own life, the importance of the life of the other person, the importance of someone's life, the importance not only to the person but also to the family and friends of that person" may be common items as a person. I feel it, and I think I can overcome my individuality and values. However, in reality, it is often impossible or difficult, and I often say "Ah". This is all really.

ここはこうだった!の根拠
It was like this! Grounds for

あまりにも「過去」が根拠になっているのではないか。と感じられると、戸惑います。
「過去」は、記憶、思い出実績実例と置き換えても良いでしょう。施工事例にとらわれすぎると、新しい技術を受け入れにくくなってしまいます。
道路の拡張で、車線が増えて、自転車レーンも整えられて、いつしか「横断歩道の距離」が長くなっていきました。まるで幹線道路は川のようで、向こう岸が遠いです。
陸橋は「経年劣化で危険」のため、利用禁止になっている場所も増えています。禁止されていなくても、見た感じで『ヤバそう』だったり、歩くと『すごい揺れる・自分の歩きで振動している』のがわかりますので、けっこうリアルに恐怖です。
「この道路は昔はもっと狭くて渡りやすかった」
「ここはサッと渡ったほうが安全」
という、その人の記憶と体感が一体化した「経験則」は、否定できないです。
しょうがないです。
だからこそ、なのですが、
「あんまり時間に追われないでほしい」と思います。
時間は大切です。もちろんです。ただ、過剰すぎるのも、どうなのかなあと。
とりあえず、よほどのことでない限りは、「時間の節約」のために乱横断するのは、やめてほしいです。乱横断は、どれくらいの時間を節約できるのか。そのリスクは。あらためて再検討してみてほしいです。
足や腰、膝の痛み。気持ちが若い頃のままでも体が「思い」についてこれない、という状態は、社会の方からも近づいてほしいかなって思います。私たちが「国会議員や立法の立場の人たちが決めた法律・条令」に近づいていって暮らしているわけですから。法律に合わせるだけでなく、人や未来の世の中に合わせる法律も
そして『時間を節約したい』『ごめん急いでいるの』という立場や状況にも関わらず、現在の法律を守っている人がいるわけです。かなりいる、と感じています。
さらには、『今の私が事故に遭えば悲しむ人がいる』と、想像力を働かせている人もいます。
交通事故の怖さは、お互いが見えにくいこと。
相手にも家族や友人知人がいるのに。
お互いが見えるように。せめて、「お互いが見える」ことを想像できたならと願います。
そこまでは、なかなか想像しにくいのかもしれません。
しかたないことですが、だからといって現状に納得できるものではないですしね。
話し合いが平行線なだけでも大変ですが、逆切れされると気力も体力も失われていきます。
『あああ』と絶句するばかり。
Isn't it based on the "past" too? I'm confused when I feel that. The "past" can be replaced with memories, memories, achievements, and examples. If you are too obsessed with construction cases, it will be difficult to accept new technologies. With the expansion of the road, the number of lanes increased, the bicycle lanes were improved, and the "pedestrian crossing distance" became longer. The main road is like a river, and the other side is far away. Overpasses are "dangerous due to deterioration over time", so the number of places where use is prohibited is increasing. Even if it's not prohibited, you can see that it's "Yabaso" when you see it, or "It's shaking tremendously and vibrating with your own walking" when you walk, so it's pretty real fear. "This road used to be narrower and easier to cross." "It's safer to cross here quickly" The "rule of thumb" that integrates the person's memory and experience cannot be denied. It can not be helped. That's why, I want you not to be overwhelmed by time. Time is important. of course. However, I wonder if it's too much. For the time being, I would like you to stop traversing for "time saving" unless it is a big deal. How much time can a turbulent crossing save? What is the risk? I want you to reconsider it again. Pain in the legs, lower back and knees. I hope that society will come closer to the situation where the body does not keep up with "thoughts" even when the feelings are still young. We are living closer to the "laws and ordinances decided by members of parliament and those in the legislative position." Not only the law, but also the law that suits people and the world of the future And despite the position and situation of "I want to save time" and "I'm sorry I'm in a hurry", there are people who are observing the current law. I feel that there are quite a few. Furthermore, some people are using their imagination, saying, "Some people will be sad if I have an accident now." The fear of a traffic accident is that it is difficult to see each other. Even though the other person has family and friends and acquaintances. So that we can see each other. At the very least, I hope you can imagine that you can see each other. Up to that point, it may be hard to imagine. It's unavoidable, but that doesn't mean that we can be convinced of the current situation. Even if the discussion is parallel, it will be difficult, but if it is cut back, you will lose your energy and physical strength. I just say "Oh oh".

まとめ
summary

好きなように綴って、まとめにならないまとめですが、
いつかどこかで聞いたことのある好きなセリフを最後にご紹介しておきます。
強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格がない
ときどき思い出すんですけどね。そうありたいと願いつつ。ときどき。
It is a summary that can not be summarized by spelling it as you like, Lastly, I would like to introduce my favorite lines that I have heard somewhere. "You can't live unless you are strong. If you are not kind, you are not qualified to live. " I remember it from time to time. Hoping to be so. Sometimes.

【2024年4月加筆】
[Updated April 2024]

乱横断の背景と対策に関する最新情報

乱横断(横断歩道以外の場所で道路を横断する行為)は、交通事故の一因として問題視されています。この記事を読んだ人が次に知りたくなる情報として、乱横断の背景、具体的なリスク、法的規制、そして効果的な対策について詳しく解説します。

1. 乱横断の背景

乱横断が発生する背景には、いくつかの要因があります。まず、歩行者が横断歩道を利用しない理由として、以下の点が挙げられます。

2. 具体的なリスク

乱横断には多くのリスクが伴います。具体的には以下のようなリスクが考えられます。

3. 法的規制

日本の道路交通法では、歩行者が安全に道路を横断するための規制が設けられています。以下に主要な規制を紹介します。

4. 効果的な対策

乱横断を防ぐためには、以下のような対策が効果的です。

5. 最新の市場動向と予測

2024年4月時点での最新情報を基に、乱横断に関する市場動向と予測を紹介します。

6. 専門家の意見と分析

交通心理学や交通安全の専門家は、乱横断の問題について以下のように分析しています。

結論

乱横断は、歩行者と運転者の双方にとって大きなリスクを伴う行為です。この記事を通じて、乱横断の背景、具体的なリスク、法的規制、効果的な対策、最新の市場動向と予測、そして専門家の意見と分析について詳しく解説しました。乱横断を防ぐためには、教育と啓発、インフラの整備、環境の改善、法的措置の強化が必要です。また、技術の進展や政策の動向にも注目し、交通安全対策を強化していくことが重要です。

1横断歩道が無くても横断して良い? 法規を調べてみた 2横断歩道が近くにあるのに… 相次ぐ“乱横断”の実態 3いま世間で問題視される「乱横断」! 危険極まりない実態とは


written by 水瀬次郎

オリジナル投稿:2019年4月8日