2019年5月9日木曜日

崎谷健次郎「瓶の中の少年」がいちめんの麦畑に海を見るとき少女が現れるといつも思う






瓶の中の少年

崎谷健次郎

from album DIFFERENCE




アルバムを締めくくるバラード。




まるで別なものが、なぜか頭の中では、うまい具合に重なることがあります。

自分の中にある記憶の景色と、いつか読んだ小説のイメージ世界。

むすびつけるきっかけは、たいてい音楽です。



歌詞が想起させる思いもあれば、

旋律が導いてくる映像もあります。


たぶん、とても個人的な領域なのでしょう。

なので、アーティストや作家が描いたものと、かなり違ってしまう場合もあります。


それでも、ひとたび別なもの同士が頭の中で重なり合うと、

強烈なインパクトで胸の奥に刻み込まれることが。


自然に薄れゆく景色となるのか、

あるいは書き換えられていくのか。





崎谷健次郎さんの「瓶の中の少年」を聴いたとき、その少年に自分を重ね合わせることができませんでした。そのかわりに、今までの自分とも違うし、自分が出会ったことのある誰かとも異なる、異世界から召喚されてきたような人物像が浮かび上がりました。

サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」や、村上春樹の「風の歌を聴け」を読んでいるときの、なにかをかきむしられるような感情と似ています。たまたま当時、読んでいたからかもしれません。時期がずれれば、赤川次郎か椎名誠の世界だっかもしれませんし、小説ではなく映画を連想していたかもしれません。


自分が重なるのではなく、第三者を発見した感覚。
あ。そこに誰か、いる。風が吹いている。そんな感じです。



「瓶の中の少年」を聴きながら、どういうわけか私の頭の中では、少女が現れるのです。

初めて聴いたときから、ずっと。
誰なんだろう。
歌詞カードを読んでも、それらしい少女はいないんですけどね。


いちめんの麦畑を風が走るとき、まるで波のようになります。
あたかも海のように。



小説の文章には、海のリズムを感じさせる表現があります。
小説だからこそ感じることのできる、心で視る「海」です。
その海と似ているのが、麦畑。
そんなことを思わせたのが「瓶の中の少年」



あたかも海のように麦畑が、ざわざわっとすることがあります。
子どもの時のことなのか、大人になってからのことなのか。
おそらく、両方です。

子どもの頃の麦畑と、大人になってからの風が、まざりあっているのです。

だからなんだか微妙に、他人事に感じられる記憶。



見渡す限り人だらけだったかもしれない現実の中で、自分ひとりだけ孤独に浮いているように感じる日がありました。ラッシュの駅で乗り換える時なのか、全校集会の時なのか、野外コンサートの時なのか。

あれもこれも、すべてを思い返させるくせに、共通点は「ただ風が吹いていただけ」あるいは「そんな気がしただけ」という感じになるとき、「瓶の中の少年」が私を回復してくれます。疲れていたなんて気づかなかったのに、疲れていたのかなと気づくことになる数分間です。



なお。

「瓶の中の少年」は、アルバム「DIFFERENCE」のラストでは弦楽器がドラマチックに演出されています。
それに対して、シングルカットされた「夏のポラロイド」のB面では弦楽器が除外された弾き語りバージョンになっています。

弦楽器は、金色の輝きを。弦楽器がないと、なぜか緑色を、思い浮かべてしまいます。



リマスターされたアルバム「DIFFERENCE」には、ふたつの「瓶の中の少年」が収録されています。

written by 水瀬次郎




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